演歌NEWS:坂東玉三郎さん、11月に22年ぶりCD「邂逅 ~越路吹雪を歌う」を発売

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人間国宝の歌舞伎俳優・五代目坂東玉三郎さんが、11月8日に22年ぶり2作目のアルバム『邂逅(かいこう)~越路吹雪を歌う』を発売するそうです。

1957年、坂東喜の字として初舞台を踏み、芸能生活60年の節目に、敬愛する“シャンソンの女王”越路吹雪さんの名曲を歌い継ぐシャンソンアルバムをリリースするそうです。

かいこう【邂逅】とは。思いがけなく出あうこと。偶然の出あい。めぐりあい。

ORIKON NEWSより引用抜粋

http://www.oricon.co.jp/news/2095563/full/

歌舞伎界が誇る当代一の女形、玉三郎。映画監督、舞台演出家など、さまざまな芸術的分野において傑出した才能を示し、人間国宝、紫綬褒章、フランスの最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章を受章するなど、世界的にも称賛されているが、歌い手としての実力も知られるところ。3月29日には敬愛してやまない越路吹雪さんの三十七回忌追悼特別公演に出演し、晩年の代表作でもあったシャルル・アズナヴール「妻へ」を歌唱したことで、改めてシャンソニエとしての評価を高め、『邂逅 ~越路吹雪を歌う』を発表することが決まった。

 1995年以来22年ぶり2作目となるアルバムでは、越路さんが歌唱したシャンソンの名曲14曲を、魂を込めて歌い上げた。越路さんの功績を歌い継ぐため、選曲にも並々ならぬ思い入れを見せ、「少しでも多く人に伝えていきたい」と隠れた名曲とも言えそうな楽曲を多く選んだ。発売日は越路さんの命日の11月7日に店着、翌8日にリリースとなる。初回限定盤の付属DVDにはビクタースタジオで撮影されたレコーディングドキュメント映像および追悼公演で歌唱した「妻へ」が収録される。

 発売を記念し、11月8・9日の2日間、越路さんゆかりの地でもある東京・銀座のヤマハホールでコンサートを行うことも決定。チケットは9月16日から一般発売が開始される。

 玉三郎は「敬愛する越路吹雪さんのすばらしい歌を、将来の人たちにも歌いつづけてもらうために、今回、三十七回忌を機に、久しぶりのレコーディングに臨みました。ステージでも皆様にお会いできるのを楽しみにしております」とのコメントを寄せた。

■坂東玉三郎 『邂逅 ~越路吹雪を歌う』
・ジュテムレ(フランシス・カブレル)
・急流(グロリア・ラッソ)
・枯葉(イヴ・モンタン)
・アマリア(越路吹雪)
・ボラ・ボラ・アイランド(越路吹雪)
・ひとりぼっちの愛の泉(越路吹雪)
・人の気も知らないで(ダミア)
・妻へ(シャルル・アズナヴール)
・離婚(ミッシェル・デルペッシュ)
・18歳の彼(ダリダ)
・群衆(エディット・ピアフ)
・アコーディオン弾き(エディット・ピアフ)
・最後のワルツ(エディット・ピアフ)
・ユーヌ・シャンソン(シャルル・デュモン)
※曲順未定、カッコ内はオリジナルの歌唱アーティスト

五代目坂東玉三郎プロフィール

▼女方。いまや歌舞伎界を背負って立つ立女方である。それとともに、歌舞伎の枠を超えて、世界の芸術家にまで大きな影響を与え、賞賛を得てきた。若くしてニューヨークのメトロポリタン歌劇場に招聘されて『鷺娘』を踊って絶賛されたのをはじめ、アンジェイ・ワイダやダニエル・シュミット、ヨーヨー・マなど世界の超一流の芸術家たちと多彩なコラボレーションを展開し、国際的に活躍。映画監督としても独自の映像美を創造してきた。歌舞伎では『壇浦兜軍記』の阿古屋や『籠釣瓶花街酔醒』の八ッ橋、『伽羅先代萩』の政岡など、かつて六代目中村歌右衛門が演じた数々の大役を継承し、新しい境地を構築している。鶴屋南北の『桜姫東文章』『盟三五大切』『東海道四谷怪談』などでも独自の芸風を展開し、高い評価を得てきた。泉鏡花の唯美的な世界の舞台化にも意欲的で、代表作の『天守物語』をはじめ、『海神別荘』『山吹』『夜叉ヶ池』など、優れた舞台を創りあげてきた。近年は尾上菊之助との『京鹿子娘二人道成寺』の創造や、中国昆劇とのコラボレーションで『牡丹亭』を上演するなど、ますます活躍の場を広げつつある。

 

梨園の外から女形の頂点へ

坂東玉三郎さんは、市川海老蔵さんとは違い、いわゆる「名門の御曹司」でありません。

現在の五代目坂東玉三郎は、1950年4月25日東京都に生まれました。本名は守田伸一です。生まれは梨園ではなく料亭を営む家でしたが、幼い頃に患った小児麻痺後遺症のリハビリ目的で日本舞踊を習い始め、その魅力の虜になってしまいます。

6歳の時には十四代目守田勘弥の部屋子となり、翌1957年には坂東喜の名で初舞台を踏みました。

1964年6月、14歳のときには勘弥の芸養子となり五代目坂東玉三郎を襲名します。

 歌舞伎に関係のない家の子として生まれ、亡くなった十三世・守田勘彌の芸養子になり、歌舞伎役者の道を歩み始めた。今は、名実共に誰もが認める女形の頂点に立っているが、ここまでの歩みの苦労は並大抵ではなかったはずだ。

玉三郎の「美」を見出したのは、三島由紀夫や澁澤龍彦など、「美学」に関して一家言持った「曲者」だったことが面白い。しかも、昭和の一時代を築いた作家たちがその美しさを認めたことが大きかった。

もちろん、玉三郎が天性備えていた魅力、自らが励んだ努力の大きさは言うまでもない。養父であった守田勘彌は、玉三郎がようやく人気が出始めた25歳の折に、68歳の若さで亡くなってしまう。しかし、玉三郎の幸福は当時の市川海老蔵(後に十二代目市川團十郎)、片岡孝夫(後に十五代目片岡仁左衛門)というまたとない相手役がいたことだ。

海老蔵とは「海老玉コンビ」、孝夫とは「孝玉コンビ」を組み、歌舞伎座ではなく新橋演舞場での「花形歌舞伎」として人気を博した。当時、歌舞伎座では昭和の歌舞伎を担った大幹部たちが円熟の芸を競っていたが、観客たちは若く綺麗な二人のコンビに殺到したのだ。

「芝居が巧い」という点だけを取り上げれば、どちらのコンビも歌舞伎座のメンバーにはかなわなかっただろう。しかし、ファンは「旬の美しさ」を求めたのだ。

玉三郎は、早い段階で歌舞伎以外のジャンルにも興味を示した。『日本橋』、『白鷺』などの泉鏡花作品を中心とした新派作品への出演、『夜叉ケ池』の映画化などに始まり、小劇場でドストエフスキーの『白痴』を演じたこともあった。また、自らが鏡花作品の『外科室』の映画化に当たり、監督の立場にも立った。

当時の玉三郎の行動は、「歌舞伎の女形」としての限界点を探し、それを越えようとしていたように思う。女形として歌舞伎の舞台に立つことだけではなく、坂東玉三郎という歌舞伎の女形が持つ「美学」を様々な形で表現することへの模索、とでも言おうか。

話題性とか「奇をてらう」という問題ではなく、自分が美しいと思うものをどう表現するか、それも含めて女形の仕事、という近代的な感覚を持っているのが坂東玉三郎という女形だ。同じ女形で歌舞伎の頂点に立った昭和の六世中村歌右衛門との違いはここにある。

玉三郎が茨の道を切り拓いて作り上げた道を、今後、誰が続けて歩んで行くのだろうか。よく、「芸は一代」と言う。仮に誰かが玉三郎の後を追ったとしても、同じことはできないだろうし、同じ結果にはならないだろう。女形であろうが立役であろうが、己の進む道は自分で切り拓かねばならないことを一番よく知っているのは玉三郎自身に他ならない。

「芸道」とは厳しいものだ。集団で芝居をしていても、役者はつまるところ己一人の孤独な作業の積み重ねの結果なのだ。玉三郎は、それを体現している役者のような気がしてならない。

日本人が愛してやまない「桜」に例えるならば、玉三郎はぼってりとした色気のある八重桜ではなく、薄紅色のひとひらの桜の花びらのような存在に見える。しかし、その印象は、ひとひらだからこそ鮮烈なのだ。

http://www.kabuki-cafe.com/tamasaburo-bando/より引用

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