演歌以外:本の紹介「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」

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今回の話題は演歌ではないのですが、「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」という本の紹介です。

最近『さようなら」と言った覚えありますか?
私は、葬儀の時に最後のお別れをするときに言ったきりで、なかなか使わなくなってきましたね。

本当に最近では「さようなら」いう美しい響きを持った言葉を近頃はあまり耳にしなくなった気がします。

そんな中で、最近見つけた本で「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書)」という本を見つけましたのでご紹介します。

「さようなら」-この言葉の持つ力について。

一般に、世界の別れ言葉は「神の身許によくあれかし」、「また会いましょう」、「お元気で」の三つですが、日本人にだけ「さようなら」があります。その精神史を探究している本です。

「さよなら」の語源から死生観、死の哲学へ。誰しも死んだ後のことはわからない。わからないから置いておくんだよね。「そうでなければならないのなら」という所から始まります。言語的な観点よりも日本人の思想から迫っている感じがします。

友人と別れるときは「またね」か「じゃあ」で済む。仕事関係の人ならば「失礼します」や「お疲れさまです」。束の間の別れに「さようなら」は、ちょっと重すぎ気がしますよね。

「さようなら」という挨拶に決定的な別れをイメージしてしまうのは、私だけではないと思います。

では、いったいいつ、「さようなら」を口にする場面って思い浮かべますか?
辛うじて想像できるのは、男女の別れ際くらいなものですよね。
いまや心の中で「さようなら」と呟きこそすれ、実際に口に出して関係を解消するカップルは少ない気もいたしますが。

「花びらは散る 花は散らない。」

日本人の死生観を代表すると著者が言う金子大栄のことばから、新渡戸稲造の考えがリンクします。
欧米人はバラを愛する。
バラは美しいが下には棘があり、死ぬるときは生に執着するがごとく枯れた頭を茎の上にさらす。
一方、日本人は桜を愛する。
桜はほのかな香りと淡い色だが、散り際の潔さはえも言われぬものがある。
たった数日のために一年間しっかり生き抜く。
本書の冒頭にある阿久悠のことばを借りて、花の一生に自分のさよなら史の厚さを重ねて考えた。
どれだけぶ厚いかで一生が充実していたかが分かるという。

この本の感想として、日本人は生き様よりも死に様に美を見いだすのかとも思いますね。
「さようなら」という言葉に秘められた無常観などは心にしみます。

どうやって「別れ」と向き合えばいいのか悩んでいる人に、たくさんの人たちの「さようなら」と向き合う姿勢を教えているような気がします。

私たちはとても悲しいし、忙しい毎日に追われることで、別れということ、「さようなら」ということ、「死ぬ」ということについて考えることが昔よりなくなったみたいな気がしますね。

普段の会話などでは「それじゃまた」とか「じゃあ」といった言い方ですませてしまっていますよね。
その「さようなら」は、もともとは「さらば」「しからば」という接続の言葉であったはずですが、接続詞を別れの言葉として使うというのは、世界に例を見ないそうです。
この本では、別れの言葉としての「さようなら」の成り立ちから、日本人の死生観についてまで、美しい詩や文章を引用しながら、わかりやすく解説しています。

現代は文明も交通手段も発達してどこへでもさほど時間がかからずに行けるし、遠く離れていても携帯やメールでいつでも連絡が取れますよね。
ブログやSNSを頼りに、過去の友人知人の動向を知ることだってできてしまします。
そんな時代に生きる人間にとって、もはや決定的な別れを意識する瞬間など滅多にないのかもしれませんね。

先ほどもいいましたが、この本の冒頭に、作詞家・阿久悠のエッセイ「ぼくのさよなら史」が引用されています。
阿久は〈人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる〉と綴り、「さよなら」が死語になった現代をこう憂う。

〈生活の中で、もう少し大仰にいって人生の中で、別れということに無自覚なら、感性をヒリヒリ磨くことも、感傷をジワッとひろげることも、それに耐えることも出来ない。(中略)なぜ、さようならを言わなくなったのであろうか。なぜ別れたことに気がつかないような不思議なことになったのであろうか〉

この疑問はひっくり返せば、「これまでなぜ日本人はさようならと言ってきたのか」ということではないでしょうか。

「さようなら」という言葉の裏側には、どういう日本人の精神性が反映されているのか。それを解き明かそうとしたのがこの「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」という本ですね。

この本ではまず「さようなら」が世界の別れの挨拶と比較して、特異な言葉であることを指摘しています。別れの挨拶を大別すると、

神のような存在のご加護を願う言葉:
“Good-bye”、“Adieu”、“Adios”、“Addio”など

「再び会いましょう」という意味の言葉:
“See you Again”、“Au revoir”、“再見”、“Auf Wiedersehen”など

「お元気で」という意味の言葉:“Farewell”、“安寧ヒ、ゲセヨ(ケセヨ)”など

の3タイプがある。だが「さようなら」や「さらば」は、

〈本来「然(さ)あらば」「さようであるならば」ということで、「前に述べられた事柄を受けて、次に新しい行動・判断を起こそうとするときに使う」とされた、もともと接続の言葉〉であり、先の3タイプのどれにも当てはまらないと説明しています。

いまでもよく使われる「では」や「じゃあ」も基本的には同じ言葉遣いで、もとを辿れば10世紀頃からこうした別れの言葉は使われてきたといいます。

「さらば」「さようなら」とは、本来「然(さ)あらば」「さようであるならば」ということで、もともとは接続の言葉です。
大阪弁の「ほな」、東北弁の「せば」「だば」もまったく同じ言葉遣いだそうです。

この本の内容

一般に世界の別れ言葉は、「神の身許によくあれかし」(Goodbye)か、「また会いましょう」(See you again)か、「お元気で」(Farewell)のどれかである。なぜ、日本人は「さようなら」と言って別れるのだろうか。語源である接続詞「さらば(そうであるならば)」にまで遡り、また「そうならなければならないならば」という解釈もあわせて検証しながら、別れ言葉「さようなら」にこめてきた日本人の別れの精神史を探究する。

この本の目次

第1章 「さらば」「さようなら」という言葉の歴史
第2章 死の臨床と死生観
第3章 日本人の死生観における「今日」の生と「明日」の死
第4章 「いまは」の思想
第5章 不可避としての「さようなら」―「そうならなければならないならば」
第6章 「さようなら」と「あきらめ」と「かなしみ」
第7章 出会いと別れの形而上学
第8章 「さようなら」としての死

「別れ言葉」というのがある。その「別れ言葉」のは「また会いましょう」や「お元気で」の他に、日本語には「さようなら」が存在する。「さようなら」の語源は「さらば(去らば)」という接続詞からきている。本書はその「さようなら」の成り立ちの歴史について探求した一冊である。

第1章「「さらば」「さようなら」という言葉の歴史」
元々「さらば」という言葉は「接続詞」だったことは最初にも記した。その「さらば(然らば)」の意味は調べてみると、

「1.それならば。それでは。
2.だからといって。それなのに。
3.別れる時にいう挨拶語。さようなら。」(「広辞苑 第六版」より)

とある。「竹取物語」といった古典作品は「接続詞」としての「さらば」が使われている。「さらば」が別れ言葉となったのは「後撰和歌集」や「源氏物語」が出た時代、つまり平安時代の前期である。

第2章「死の臨床と死生観」
「さらば」という言葉には「死」とも隣り合わせである。というのは「別れ」という言葉の裏側に「死」も含まれている。その事について「太平記」や「100万回生きたねこ」など作品を取り上げながら考察を行っている。

第3章「日本人の死生観における「今日」の生と「明日」の死」
日本人の「死生観」として「さらば」「さようなら」がどのように描かれたのかを「和歌」を中心に考察を行っているが、その題材の考察道具として和辻哲郎ら民俗学者らの考え方も紹介している。

第4章「「いまは」の思想」
言うまでもなく、感じで言うと「今」という「現在」の時間軸に対する考え方を「死生観」とともに描いている。第3章の延長線上として「いま」に対する考察を行っている印象がある。

第5章「不可避としての「さようなら」―「そうならなければならないならば」」
「さようなら」を漢字で変えてみると「左様なら」
「左様なら」を少し砕けた書き方をすると「そうであるならば」
「そうであるならば」を強制的な表現にすると「そうならなければならないならば」となる。
「さようなら」と「そうならなければならないならば」の関連性は少し遠いがないわけではない、という答えになる。
「さようなら」は「別れなければいけない」という宿命が存在することも本章で取り上げられている。

第6章「「さようなら」と「あきらめ」と「かなしみ」」
「さようなら」に対する解釈は他にもある。
「そうなってしまう」ことへの「あきらめ(諦め)」、そして別れに対する「かなしみ(悲しみ)」といった評価が挙げられるのだが、2つの評価はそれぞれ異なり、主張する論者も異なる。

第7章「出会いと別れの形而上学」
人間における生活には、必ず「出会い」と「別れ」は起こる。それは避けられようのない「宿命」である。しかし「いつ起こる」かというと、「偶然」でしかない。その「偶然」のなかで、いかにとらえるのかについて考察を行っている。

第8章「「さようなら」としての死」
第2章と第3章の延長線上にあるようなところである。「死別」という言葉が存在するのだが、その「死別」における「さようなら」の意味について問い質している。

ごく当たり前に使われる「さようなら」という言葉。その言葉の語源は単純であれど、意味の変遷は歴史や民俗、宗教とともにあったと思えてならない。しかし「さようなら」は人生においてもっとも重要なものであることを本書でもって知らしめてくれる。井伏鱒二の作品に出てくる「『さよなら』だけが人生だ」というが如く。

 

著者紹介 竹内 整一(タケウチ セイイチ)

1946年長野県生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業。現在、鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。専門は倫理学、日本思想。日本人の精神の歴史を辿りなおしながら、それが現在に生きるわれわれに、どのように?がっているのかを探求している。主な著書に、『「かなしみ」の哲学』(NHKブックス)、『花びらは散る 花は散らない』(角川選書)、『「おのずから」と「みずから」』『やまと言葉で哲学する』『やまと言葉で〈日本〉を思想する』(以上、春秋社)、『ありてなければ』(角川ソフィア文庫)などがある。

興味があられれば秋の夜長にちょっとした哲学書みたいですがいかかでしょうか。

この文章が秋の夜長になりましたね。

同じ作者の下記の「花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想 (角川選書)」もあります。

文章がへたなのでまとまりがありませんでしたね。最後まで読んでいただいてありがとうございます。

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