演歌以外:老いはするが老人にはならぬ

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今回の演歌以外は「老い」はするが「老人」にはならないという話題です。

1965年に創刊し、才能溢れる文化人、著名人などが執筆し、ジャーナリズムに旋風を巻き起こした雑誌『話の特集』。この雑誌の編集長を30年にわたり務めたのが矢崎泰久氏です。

この矢崎泰久氏は84歳、ここ数年は、自ら、妻、子供との同居をやめ、一人で暮らすことを選び生活している。オシャレに気を配り、自分らしさを守る暮らしを続ける、そのライフスタイル、人生観などを一部紹介します。

この記事の中に「オシャレの似合う老人こそ、素晴らしき存在」という記事がありましたので紹介します。

「えんかすき」の周りはカラオケスタジオで歌う人が多くて、また、カラオケ大会に出るような方が多いので結構おしゃれな方は多いですね。それでも普段のおしゃれはどうなのかなと思っています。

引用元は介護ポストセブン

https://kaigo.news-postseven.com/5697

オシャレの似合う老人こそ、素晴らしき存在 

「襤褸(ぼろ)は纏(まと)えど、心は錦(にしき)…」

 という言葉がある。身形(みなり)は貧しくても、心だけはシャンとしていろというわけである。

 老いるとついついオシャレを怠る。どうせ見栄えもしないし、服装などに金をかけたくないと思いがちなのだ。

 これはとんでもない誤りであって、オシャレの似合う老人こそ素晴らしい存在は他にない。それこそ惚れ惚れとする。

 私はみすぼらしい老人が大嫌いだ。醜いだけでなく汚れて見える。実に哀れである。口をへの字に曲げ、鼻眼鏡を気にもしない。それどころかヨボヨボとして頼りない。その上、僻(ひがみ)っぽいときている。

 こういう老人を見かけると、私は思い切りシャッキとなる。つまり、人の振り見て我が振り直す。老紳士たらんと自らを鼓舞し、志気を奮い立たせる。

 かと言って老いは老いとして自覚しなくてはならない。動作もスムーズではないし、言葉も滑らかというわけにはいかぬ。歩き方にしても明らかにモタモタしている。しかし、そのことに胡坐(あぐら)をかいてはならない。そこが大切だと思う。

「老い」は自覚していても、むしろ老紳士たれと自らを鼓舞するという

戦後から70年以上通う競馬場での出来事

 体調が良く、天気に恵まれた日曜日に、私はしばしば競馬場を訪れる。少年時代に父親に連れられて競馬の魅力にとりつかれ、戦後70年以上も、ダービーの日には必ず東京競馬場へ足を運んでいる。

 馬券売り場が混み合っていると、窓口でモタつく。締め切り直前になると、後ろから罵声を浴びせられる。

「オイ、爺(じじ)い、何やってんだ。早くしろ!」

 容赦ない声が飛んでくる。ますます焦り、失敗を繰り返す始末だ。最近の窓口は、ほとんどが自販機だから、口頭で修正なんぞは受け付けてくれない。

 私は決心して、

「静かにしてください。気が散ります。それはあなたのためです」

 と、毅然たる態度で立ち向かった。いわば威厳を込めた私の姿勢によって、その怒れる中年の男は、すっかりたじろいでしまった。

 ボルサリーノを目深にかぶり、三つ揃いのスーツにアスコットタイを結んだ私の身形にも気圧された様子だった。

 投票を終えた私は、何事もなかったように、背筋を伸ばして立ち去った。

「すみません、お騒がせしました」

 スレ違い様に男は私に詫びたのだった。年寄りの後ろに並ぶなよ、と口から出かかったが、そこは自重した。

 遊びには常に余裕と悦楽が必要である。溺れることは慎まなくてはならない。ヒートアップすることは、運を手放すばかりか、身を滅ぼしかねない。ことにギャンブルに興じる人にとって、冷静さだけは失ってはならない。

尊厳のない老人は生きる価値を自ら棄てている 

 老人を労(いた)わらない若者は、たいてい未熟である。しかも、それに全く気が付かない。不幸の始まりがそこにある。逆境に弱い。それでいて、自分だけがツキがないと思い込む。

 こうした人生を送って老化してしまった人は、えてして労わりを求める。つまり根から身勝手なのだ。

 混み合った電車に乗り込んで、優先席に辿り着こうとする老人は、やはりいやしい。そのいやしさに気づかないとしたら、ゴミ同然である。

 嫌な老人の典型は、何かにつけ助けを求める。いわゆる憐みを乞う。施しを受けることを当然と思っている。その気持ちが間違っていることに一向に気づかない。尊厳のない老人は、生きる価値を自ら棄てているとしか言いようもない。

 何度も言うようで恐縮だが、人は誰でも必ず老いる。自覚して老いるか、漠然と老いるかでは、雲沼の違いがある。

 自分自身の現実を正しく受け入れることが、どれほど大事かを考えた時、私はなるべく人の世話になるまいと思ったのだ。自分のことは自分でやる。迷惑をかけないつもりでも、いつもどこかで、誰かに迷惑をかけている。


この文章の最後のことば、「自分自身の現実を正しく受け入れることが、どれほど大事かを考えた時、私はなるべく人の世話になるまいと思ったのだ。自分のことは自分でやる。迷惑をかけないつもりでも、いつもどこかで、誰かに迷惑をかけている。」は、たしかに人間一人では生きてはいけない、誰かの世話になっています。それでも自分でできることは自分でする。その意思こそが自覚して老いるか、漠然と老人になるかの差ではないでしょうか。

まだ、自分は先の話と思っていても必ず「老い」は訪れます。「オシャレの似合う老人」を目指して生きていきましょうね。

オシャレをするというのは脳の活性化にも役立ちますので認知症予防にもなりますよね。

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