新曲演歌紹介。五木ひろしさんの「恋歌酒場」2018年1月10日発売

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今回の演歌好きの演歌新曲紹介は、2018年1月10日発売の五木ひろしさんの「恋歌酒場」です。

五木ひろしさんの2018年最初のシングルは、「ほとめき風」”ほとめく”とは、九州筑後地方の方言で”もてなす”という意味。久留米市の風物を歌詞に取り入れながら、ほのかな恋心を上品に謳いあげた楽曲で、松井五郎先生の詞に五木ひろしさんが作曲した作品の「ほとめき風」、阿久悠先生の未発表の詩に徳久広司先生が作曲をした「恋歌酒場」の両A面シングルとなっています。

「恋歌酒場」は、没後10年になる阿久悠氏の未発表詞に、ヒットメーカー 徳久広司氏が曲をつけた、ヒット曲「居酒屋」の系譜に連なる作品。 数十曲に及ぶ阿久悠氏の未発表詞の中から選び抜かれた詞は、都会的な酒場を舞台に一人の男とピアニストが哀しくも激しい恋に身を投げる物語となった。 川村栄二氏の物悲しくも力強いアレンジはドラマチックに物語を描き、五木の歌唱は恋愛のみならず一人の男の人生を鮮やかに紡ぎ出す。

五木ひろし「恋歌酒場/ほとめきの風

※画像はAMAZONの画像を利用していますのでクリックするとAMAZONのページに行きますので行きたくない方はクリックしないようにしてください。作品レビューとかもありますの購入予定の方とかカラオケを歌われる方は試聴がありますので参考になると思います。文字もリンクしています。

五木ひろし 「恋歌酒場」

五木ひろし 「恋歌酒場/ほとめきの風」 カラオケ

「とどけよ恋よ想いを籠(こ)めて 今宵も歌うピアノのひとは 心やさしくあなたのためと 指輪を外すああ せつなくも 哀しくも熱きやわ肌 色づくような恋歌よ 恋歌よ乾いた砂漠に降る雨のごと 人(ひと)生(い)きる歌よ 恋歌酒場 名残りの夜の心に満ちた 想いのたけを更け行く窓に 雨の雫が涙のふりで 滴(したた)り落ちるああ 激しくも 苦しくも時の流れをとどめるような恋歌よ 恋歌よ嘆きの巷に咲く花のごと 人(ひと)生(い)きる歌よ ああ 儚くも 空(むな)しくも夢をうつつと信じるような恋歌よ 恋歌よ」

五木ひろし 「ほとめきの風」 カラオケ

ほとめきの風」は”ほとめく”という九州は筑後地方の方言(『もてなす』という意味)をとりあげ、さらに久留米市の風物を歌詞に取り入れながら、ほのかな恋心を上品に謳いあげた作品。心のこもった”おもてなし”と”恋心”を丁寧に歌い上げる。

【収録曲】

1.恋歌酒場

2.ほとめきの風

3.恋歌酒場オリジナルカラオケ

4.ほとめきの風オリジナルカラオケ

2018年1月10日発売

五木ひろし「【秘蔵映像】五木ひろしヒストリー 」

五木ひろし「契り 」

五木ひろし「夜明けのブルース」

 

五木ひろし「そして めぐり逢い」

五木ひろし「細雪」

 

#五木ひろし hashtag on Twitter

https://twitter.com/hashtag/五木ひろし

五木ひろしオフィシャルウェブサイト

http://www.itsuki-hiroshi.co.jp/

五木ひろし プロフィール

本名 松山数夫
生年月日 1948年3月14日生まれ
出身地 福井県三方郡美浜町

芸能生活50周年を経て、2015年(平成27年)五木ひろし「よこはま・たそがれ」より45周年を迎えた。
1964年(昭和39年)「第15回コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝し、プロ歌手となる。
1970年(昭和45年)「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜きの栄冠を得る。翌1971年(昭和46年)3月1日に「五木ひろし」として「よこはま・たそがれ」を発表。この曲の大ヒットにより、数多くの賞を受賞し、一躍ミリオンセラー歌手となる。
毎年年末のNHK紅白歌合戦では、1971年「よこはま・たそがれ」で出場以来、連続しての出場。また2004年3月には、自身の構成演出による日生劇場ライブコンサートが評価され、文化庁より第54回芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。2007年11月には紫綬褒章を受章。
常にチャレンジを続ける日本歌謡界のトップランナー。
あらゆるジャンルで最高の声を披露できる日本を代表する歌手として、多方面から評価を得ている。

五木ひろしさんがいかに大物か、受賞履歴をみてください。すごいですね。

日本レコード大賞・2回(歴代3位)
最優秀歌唱賞・3回(歴代単独1位)
歌唱賞・5回(歴代単独第1位)
TOP100チャートイン作品数・歴代単独第1位
紫綬褒章(2007年)

二十歳のころ五木ひろし

www.sanspo.com/geino/news/20170822/geo17082211000005-n1.htmlより引用

16歳で上京、デビュー後に歌の師匠が50歳で急死

東京五輪が開催された1964(昭和39)年。
16歳の少年が、福井県から歌手になる夢を抱いて上京した。
大型連載の第21回は日本を代表する歌手、五木ひろし(69)。
子供のころに両親が離婚し、上京直後に歌の師匠が急死、歌手デビューしたものの10円のお金すらない極貧生活…。
幾多の困難を乗り越え、情感あふれる歌謡曲を歌い続ける人間力の源をたどる。

人の縁とは不思議なものだと、この歳になってしみじみ思います。
多くの出会いと別れがあって今の僕があります。

僕は、おふくろに楽をさせるためにプロの歌手として成功したかった。
二十歳前後は、その一心でした。

1964年の春、16歳で上京したときからお話ししましょう。
京都の音楽専門学校、関西音楽学院から東京の明大付属中野高校に編入。
その年の10月に東京五輪が開かれましたから、東京の街は活気に満ちあふれていました。

上京したのは、松方弘樹さんの父で俳優、近衛十四郎さんのマネジャーが「歌手にならないか」と京都で声をかけてくれたからでした。
当時、歌手を目指していた松方さんの師匠が、美空ひばりさんの「港町十三番地」を作曲した上原げんと先生。
その縁で、僕も東京に住む上原先生の門下に入ったのです。

僕の歌を聴いた兄弟子の松方さんは「俺はかなわない。
俳優一本でいく」と門下を離れてしまいました。
ただ、僕自身は松方さんにご飯をごちそうになるなど、本当にかわいがっていただきました。

東京五輪開幕直前の9月。
出場したレコード会社、コロムビア(現日本コロムビア)主催の「コロムビア全国歌謡コンクール」で1万人の中から優勝し、プロとしての第一歩を踏み出しました。

所属したのはコロムビア傘下の事務所。
先輩に島倉千代子さんらがいました。
翌65年、上原先生から芸名「松山まさる」をいただき、5月5日に先生の作曲した望郷歌「新宿駅から」でデビューします。
17歳のときでした。

歌謡曲を聴くのが好きだった鉱山技師の父の影響で、小学生のころはラジオから流れてくる流行歌の歌詞を書き留めては覚えて歌う毎日。
中学からギターも独学で始めました。
いつしか芽生えた歌手の夢がかなった17歳。
時代と同じく夢と希望にあふれていました。

福井県の実家は農家でしたが、僕が小学5年生のとき、おやじが家を出て両親は離婚。
末っ子の僕を含め4人の子供を抱えたおふくろは、畑仕事だけでなく、鉄道の敷設工事など男衆にまじってツルハシを振るい、朝から晩まで働き続けました。
女手ひとつで育ててくれたおふくろに恩返しをしたかったんです。

上原先生は、僕の歌声の高音域の魅力を認めてくれた最初の人でした。
ところが…僕がデビューした3カ月後、心筋梗塞のため50歳で急死します。
大きな後ろ盾を失い、僕は途方に暮れました。
それが、実家にかける電話代にも困る生活の始まりでした。

収入ゼロ…4畳半で“シャケ缶暮らし”

歌手デビューしたものの、17歳の僕にとって最初の師匠で作曲家、上原げんと先生の急死は、思いもかけぬ悲しみと同時にショックでした。
生活態度から歌唱方法まで、これから指導を受ける矢先でしたから…。

気落ちした僕を引き受けてくれたのは、都はるみさんの「好きになった人」などで有名な作曲家、市川昭介先生。
それから2年間、コロムビアで4枚のシングルを出しましたが、いずれもヒットせず。
1967年、日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)に移籍します。

そこで、また新しい縁がありました。
フジテレビのプロデューサーだった白鳥朝詠(ちょうえい)さんです。
「好きになった人」の作詞もした方で、白鳥さんから「一条英一」という芸名をいただきました。

「松山まさる」から心機一転改名し、再デビューとなりました。
「俺を泣かせる夜の宿」など3曲出しましたが、またもヒットせず。
所属事務所もコロムビア傘下から、西田佐知子さんや三田明さんの所属する東洋企画へ。
でも、所属ではなく業務提携でした。

そのころは契約してくれるレコード会社もなく、当然ヒット曲もない。
仕事はほとんど来なくなり、生活の保障もまったくなくなりました。
それでも、東洋企画の紹介などで九州のキャバレーをまわり、なんとか食いつなぎました。

そのうち東洋企画からも離れ、完全フリーに。
福井県から上京して3年たった19歳のころです。
上京当時は新宿にある4畳半のアパートに住んでいましたが、次第に家賃が払えなくなり、次から次へと十数回、二十歳過ぎまで、安アパートへの引っ越しを繰り返しました。

最も安かったのが板橋の4畳半。
僕以外はほとんどが学生で、家賃は7000円でした。
当時の物価の2倍といわれる現代に換算すれば、1万4000円ぐらいかな。
洗面所とトイレは共同。
お風呂は大家さんの自宅で使わせていただきました。

食べるために先輩歌手と組んで渋谷の飲食店をまわるギターの流しもやりました。
「こんばんは」と言って、1軒1軒まわっては歌うのですが、1曲100円ほど。
ただ、僕はどうしても性に合わなかった。

真剣に流しを続けようと思わなかったせいもあるのでしょう。
2週間ほどで辞めました。
福井県の実家にSOSの電話をしようにも、10円のお金もない日もありました。
仕方がないので、ギターやテープレコーダーなど金目のものはすべて質に入れました。

毎日、食べていくのに精一杯。
収入がゼロですから。
質に入れて受け取ったお金で実家のおふくろに電話して、当面生活できるだけのお金とお米を送ってもらいました。
おかずはシャケの缶詰とか、あるもので…。

そんな生活が続いたのは、19歳半ばから21歳にかけての約1年半。
たまの仕送りでお金のあるときの唯一のごちそうは、板橋の安アパートの近所にあった中華料理店の酢豚定食でした。
値段は確か300円。
豚肉と、たっぷりの野菜が魅力でした。
月に1回か、多くても2回。
あれはおいしかったなあ。

歌も歌わず、来る日も来る日も、すきっ腹を抱えていた。
そんな生活を続けていたころ、食事で救ってくれたのがフジテレビでした。

忘れられないフジテレビのそばの味

二十歳前後は仕事がまったくなく、生活費にも困る毎日。
頼るのは実家のおふくろからの、たまの仕送りでした。
成人式にも出ませんでした。
そんな折、板橋から中野の安アパートに移り住んだころのことです。

机の引き出しを整理していたら、隅っこからフジテレビの社員食堂の食券が何枚か出てきたんです。
以前番組に出た際、ディレクターからいただいたものでした。
毎日腹ぺこでフラフラだったので、まさに闇夜にちょうちんでした。

当時、フジテレビは新宿区河田町にあり、中野の僕の自宅からは直線距離にして5キロはありました。
1000円分ほどの食券を握りしめ、歩いてフジテレビの食堂へ。
あのとき食べた温かいそばのおいしさは、今も忘れません。
食べつなぐために残りの食券はすべて即席ラーメンに代え、数日しのぎました。

そのころ一度だけ、なけなしの金で福井県に帰り、おふくろからアパート代を含め20万円もらいました。
現代に換算すれば、2倍の40万円ほどでしょうか。
親戚に頼んで工面したのでしょう。
そのとき「生活に困っても、人に後ろ指をさされることはするな。
間違ったことだけはするな」と言われたのを、今も肝に銘じています。

おふくろがいやがるので黙っていましたが、離婚した父親からも、何度かこっそり頼んで、仕送りをしてもらっていました。
親のすねかじりそのものですね。
両親はもう他界しましたが、情けない二十歳でした。

そのころです。
住んでいた安アパートの住民の中に、新宿のサパークラブで働いている女性がいて、僕が歌手だと知り、「サパークラブで歌ってみないか」と誘ってくれたのです。

極貧生活を脱する大きな転機となりました。
行ってみると、当時の新宿では最も高い8階建ての最上階。
ボンゴという店でした。
食事を済ませた大人たちが、歌謡曲など当時の流行歌を生演奏で聴きにくる店です。

僕はまず、質屋からギターを引き出しました。
曲がりなりにも17歳でデビューし、持ち歌のほか幼いころからラジオで聴いて独学で学んだ流行歌はたくさん歌えましたから。
生活のためには、酔客の前で歌うことにもためらいはありませんでした。

ボンゴでは、ギター1本の弾き語り。
ピアノの弾き語りの男性と30分交代制で、勤務時間は平日の午前0時から3時半まで。
日当は一晩2000円ですから、1カ月で4、5万円にはなりました。

ラストはたいがい菅原洋一さんの「きょうでお別れ」(1967年)。
お客さんからのリクエストで演歌を歌うことも多く、さらにレパートリーが広がりました。
おかげさまで、今では戦前を含め3000曲以上の演歌・歌謡曲を譜面なしで歌えます。

ボンゴは、満員になると150人は入る店なのに、1組しかお客さんが来ないときもあるほどガラガラでした。
それが僕の歌声でだんだん評判を呼び、歌い始めて3カ月もしないうちに毎晩、満員になりましてね。
お客さんが増えていくのが、すごくうれしかった。

似たような店が他になかったこともありますが、僕も必死でした。
ようやく実家のおふくろに「仕送りはいいよ」と伝えました。
そして、新たな出会いが、また僕を救ってくれたのです。

勝ち抜けなかったら母の農業継ごうかとも

4度目の改名で五木ひろしとなる前の二十歳のころ。
歌手としては売れなくても、新宿のサパークラブ「ボンゴ」で歌謡曲のギターの弾き語りが評判を呼び、半年ほどたっていました。

今度は、銀座のクラブ「久爾(くに)」からも声がかかったのです。
それからは午後7時から11時半まで「ボンゴ」、午前0時半から5時まで「久爾」。
明け方に帰って寝る昼夜逆転の生活とはいえ、ようやく食べていけるようになりました。

当時、僕を引き受けてくれるレコード会社はありませんでしたが、偶然にも「久爾」のママが元歌手で、弟さんがミノルフォンレコード(現徳間ジャパン)の社員。
店にはミノルフォンの社長もしていた、後に国民栄誉賞を受賞する作曲家、遠藤実先生がお見えになっていたんです。

その縁で、何度か社長室で話を聞く機会がありました。
遠藤先生も僕と同じく売れなかったころ、東京で居酒屋をまわるギターの流しをしていた。
冬の寒いとき、手がかじかんでギターを弾けない。
温める手袋も暖房もない。
仕方がないので、自分のおしっこで温めたそうです。

僕の苦労など、苦労のうちに入らないと痛感しました。
21歳になった僕は、遠藤先生の口利きでミノルフォンの所属に。
3度目の正直で売れたいという願いを込め、「三谷謙」に改名し、再々デビューしました。

ところが、その直後に遠藤先生は他のレコード会社に引き抜かれてしまいました。
またも後ろ盾を失いましたが、ギターの弾き語りをしながら、じっとチャンスを待ったんです。

そして22歳のとき、プロアマ問わず出演する日本テレビの「全日本歌謡選手権」に出場しました。
上京して6年目。
売れない歌手の再起を促す番組でもあり、10週勝ち抜けなかったら、福井県に帰って、おふくろの農業を受け継ごう。
そう決めていました。

審査員は作曲家の船村徹さん、作詞家の山口洋子さん、作曲家の平尾昌晃さん。
10週勝ち抜いた後の1971年3月、山口さん作詞、平尾さん作曲の「よこはま・たそがれ」でようやく大ヒットを飛ばすことができました。
4度目の改名、五木ひろしの誕生でもあったのです。

審査員の3人はすでに他界されましたが、振り返れば誰かが助けてくれる。
その連続でした。
今も深く感謝するとともに、自分自身にも、よくぞ、やけにならなかったなと思います。
自分の歌唱力を信じていたし、おふくろのためにも成功したいと思い定めていましたからね。

23歳のときにおふくろを福井県から呼び、88年に結婚する40歳まで目黒の2DKマンションなどで同居しました。
身のまわりの世話をしてくれるおふくろのために、30歳のとき都内に家を建てることもできました。

思い返せば東京五輪の64年に上京し、2020年東京五輪・パラリンピックのときには、五木ひろしとしてデビュー半世紀近くになる。
スポーツの祭典ではありますが、僕も歌で貢献したい。
64年のときは、三波春夫さんに代表される「東京五輪音頭」で世の中、盛り上がりましたからね。

世の中を元気づける歌の力は大きい。
特に歌謡曲には、日本人の情感や奥ゆかしさが詰まっています。
これからも日本語の歌詞を大切に先輩たちの歌を継承しつつ、若手の歌手を引っ張る存在であり続けたい。
自分にしかない個性を大事に、どん底でも夢をあきらめない-そんなことも伝えていけたらと思います。


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